5/8HEP HALLにて記者発表が行われました。その模様をまとめました。とっても長文。まどわされるな。真髄を読め。
なんとか扇町の方を引っ越ししまして事務所を万歳、On The Run、うちの音楽を作るものがひとつのマンションの部屋に入りまして一応新しい体制で劇団自体は動き出しました。稽古場がないので、まあこれから公演の都度どこかを借りていくという形に成ると思いますが、ただでさえ、稽古場が不足している昨今でありますから、僕等が扇町に稽古場を構えている間に創造館の方は、割とそこを主に借りて稽古している連中が決まってきているので、そこに僕等がやらしてくれって割り込むと、その連中がはじかれるのは可哀想だとおいうのがあるので、創造館以外で稽古ができるところを捜しながら、2.3箇所の稽古場を移りながら稽古をしていこうと思っております。
この「みんなの歌」なんですが、僕がちょっと台本を書くという作業のベクトルをかえつつあるので、今までとは違う形で作業をしようと思っています。それはどういう事かというと、ここ5・6年色んな状況や、世間みたいなもの、そこに身を置く価値観を遊んできたという気持ちが強いです。前回の「さらバイ」にしても閉塞した状況の中で暮らす僕等が何を一番核として自分達の行動を決めようかとか、行き先を定めるのがよろしいかというのを遊んできたわけなのですが、その前の「錆びたナイフ」も健康という価値観を遊んだり、「大胸騒ぎ」も生きていく事の価値観を状況に合わせて遊んできたわけです。それやりすぎると説教臭くなるんじゃないかと、こうあるべきなのにこうなっていることをアイロニックに肯定したりするとかという逆の方向もやはりちょっと道徳的などこかに着地するということが自分の中でも不満だったんです。なので、今回は、ある種の価値観を遊ぶ風にはしないでやろうと思ってます。
当たり前のことなんだけど、とりあえず、生きていく上で、ある種の根拠のない未来をみて生きていくわけです。それがないと生きていけないわけなんだけど、考えてみれば根拠のない未来というのを見るためにやっぱりその未来を見れる為の今がないとだめだと思う。
信じられる今に生きていないと根拠がなく、どうしてそうなるか説得力がないにしても、そうなりたいとかそうなったらいいなとかという未来を信じられないだろう。つまりは未来というのは信じられる今の延長線上にあるのだ。単純に言うと、お百姓さんは、種をまくという今を信じられるなら、それが芽をだして雑草をとりはらい、面倒を見ていくという近い未来を信じられている。近い未来を信じられるなら、半年もしくは1年後に収穫するという未来は在る程度根拠在るところで信じている。その根拠在る自分が信じたい未来に向かう為には、自分の今を信じとかないとそこへは到達できないですね。で、少なくとも、近い将来の未来を信じるには、信じられる今を生きなければいけないんだけど、お百姓さんにしてもですね、そりゃなんとなく相当な確率で信じられるのではないかと思うのだが、ただ、日照りや雨や嵐など想像を超えた天変地異があれば、その未来はもろくも崩れるわけで、信じられない物になってしまうんですけども、それは相当極端なことが起きない限りは大丈夫。じゃあそう言う農作物を作るんじゃなくて、会社に勤めている人はどうなるんだと言うと、少なくても終身雇用があったときはとりあえずこの今を信じていれば60か65ぐらいまでは生きていけると、何か根拠のある未来の中に今を生きてきたんですね。ところで、終身雇用がなくなってから、こんな今をやってて、来年もこうしてられるの?とそうとう信じられないと思うのね。ということは、大勢の人が信じられない今に生きてるんじゃないかと。もしくは「信じたくない今」というものに。そうするとですね、今が信じられないってことは未来を信じられない。未来を信じるってことは生きていくという事ですから。信じられない今を生きてることはあまり生きてる意味がない。今を信じられない人は、未来も信じられないから、結局ネット上で自殺を示し合わしたりするんじゃないかと。ほとんどの人が未来を信じられないから死ぬんじゃなくて、自分の今を信じられないから、今に絶望しているから、死ぬんじゃないだろうか。となると、少なくとも、僕等は生きようとしているし、生きたいから、信じられない今に自分がいるとするならば、新しい信じられる今を捜さなければならない。新しい今を捜そうと言うことになると、すると、その行為は、冒険になったり、何かしらの精神的なバネをきかせてジャンプアップしていかなければしょうがないのだけれど、この景気ですから、新しい今を捜すために踏み出すのも危険だと本当に新しい今を捜そうと踏み出したが為に、全ての今を失っちゃうみたいなことになりかねないぞと、そうすると、自分の今は余り信じられないな、この信じられない今にしがみついて、世の中の情勢が好転するまでやり過ごすしかないのかなと停滞した今を皆抱えちゃっている。
これまでの作品の書き方からすると、その今というものをどういうふうに見るかということを割と記号を変換して意味を変えたりしながら、今の価値観を遊んで行くような作品の作り方をしてきたんですけど、今回はそうしないで、単純に信じられない今に生きるばかばかしさをとことんやる。僕は、「信じられない今」に自分達がいてなんとか別にどっかにあるだろう新しい信じられる「今」を捜すというそういう行為を遊びたい。価値観じゃなくて。それを漠然と頭の中で考えてんだけど、あんまり現実的な話になんないんですよね。ちょっと変な話しか思いつかないのね。例えば、両目が結膜炎になりましてですね。もやがかかったように視力が落ちてしまうと、結膜炎は治ってもその視力が快復するまで、一月くらいかかるからその目で、生活しなきゃならない。そのぼやけたいつもと違う風景というのは、まるで、水の底から水面を挟んでその外側の陸地の風景を見ているような風景になってる。、つまりは、陸で暮らしながら、水中で暮らす生き物のように、物を見ていく。となると、何がどんな風にゆがんで見えるんだろうかとか、またそういうどこか新しい別にある信じられる今を捜すということはありもしない廊下を歩いていったりとか、有り得ない階段を登ったり降りたりする行為なのかなとか、ハリーポッターの魔法学校みたいな話になってきちゃうのね、それが、ある種の信じられない今と、どっかにあるだろう新しい信じられる今という間のラビリンスの話なのかそういう迷路を成立するのかと思ってはいるんだけど、ただそれをハリーポッターやるわけにはいかないので現実的な主人公を通してその迷路を遊ばなければいけないと思っています。

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